レッスンのときに見るHちゃん(小5)は、他の子の意見をきちんと聞き、何か間違いを指摘されたときには相手に「気付かなかったー。教えてくれてありがとう。」と言えるような子で、こちらが見習わないといけないような部分をたくさん持っている子です。本もよく読んでいるようなイメージがあったのですが、「本はあまり好きじゃない」と言っていて、読んでくれるようになるといいなー、と密かに思っていました。
ちょうど5月の初めくらいにお母様とお話させていただいたとき、そのことをお伝えするとお母様もそのことは気にされていたようでした。それまでは見守り状態でこられて、このままではいけないと思われたのでしょう。お母様がHちゃんにうまい促しをしてくださったようでした。
その後、Hちゃんはレッスンに来たとき、「学校の行き帰りのバスの中で毎日読むようにしました。」ということを教えてくれて、毎回嬉しそうに「今は〇〇を読んでます。」とか、私が「あれからまた読んだ?」と聞くと嬉しそうに、「うん。あのね・・・」と話してくれるようになりました。
そんなHちゃんから、昨日のレッスンの読書タイム後、絵の観察文を書くために原稿用紙に向き合った直後に飛び出した言葉。
「あー、なんか読むのと書くのは全然違うー!」
読むことも書くことも考えることには変わりないのですが、「書く」という行為は一番複雑で難しいのです。一筋縄ではいきません。
ただ、そのことをいくらこちらが先回りして言葉で伝えても、子どもたちの頭の中には残らないことがほとんどです。
けれど、こうして自分で読み、自分で書き、体感したことというのは、そう易易とは消えていかないはずです。
「Hちゃん、あなた本当に大事なことに気付いたね!素晴らしいね!そうなんだよ。書くことって本当に大変なんだよ。でもだから、その分挑戦する甲斐があるし、だんだん書けるようになってきたら、更に楽しくなるよー。」
私の方が嬉しくなりました(笑)。
テストの点が良くて勉強ができているように見える子。
テストの点が悪くて勉強はできないと思い込んでいる子。
そこにはどちらにも同じ思いがある気がしてなりません。
それは「勉強することが嫌い」だということ。
テストで高得点を取れても、テストが無ければ勉強はしないのなら、
それは「学びの本質」が培われていないということではないか、と思います。
得点アップだ、苦手克服だ、とお仕着せのものを与えていれば、
いつかは「勉強嫌い」という誰もが望まなかった結果になるのでは?
脳の土台に「学び好き」を定着させれば、学校の勉強さえも結果的には良い方向に向かうのでは?
読むことも書くことも話すことも聞くことも、考えるということも、
与えられているものをただこなしているだけでは、いつまでたっても自分で操れるようには
なりません。そしてそこがすっぽり抜ければ、何をやってもザルから流れていくばかりの
気がしてなりません。
大人がちょっと背中を押すことで、もっともっと「自分で学ぶ」ことを体感・体得できる子が増える、「自分で考えることができる子」が増える、私たちはそう信じています。