最近、小学1年生の娘が学校の遠足でサファリパークに行きました。
学校からもらったしおりには、そのときの思い出を書くページがありました。
「サファリではリスザルとカンガルーがかわいかったです。それでわたしはカンガルーのところでティッシュをおとしました。それがかなしかったので、これからずっとさがして、あったらごれんらくをください。」(原文まま)
最初に読んだとき、思わず笑ってしまったのですが、心に残る思い出は誰しもが違っていていいし、娘らしい思い出だなと思いました。
このしおりは、もちろん学校に持っていき、先生に提出しました。
いただいたコメントにはこう書いてありました。
「だれかがひろってくれるといいね」
多分、ティッシュはもうないと思うのです。
カンガルーが食べてしまったかもしれないし、飼育員さんが見つけて捨てたかもしれません。
先生も忙しく、20数名の生徒一人一人の思い出に長々とコメントを書いていられないかもしれないことは容易に想像できます。
でも、娘にとって学校で初めての見学遠足。そして学校で書く初めての作文らしきもの。
せっかく一生懸命書いたこの文章をこのまま綴じて終わりにしたくないなー、もったいないなーと私は思いました。
じゃあティッシュがどうなっているか実際に尋ねた方が、娘のこの書いた文章に息を吹き込めるというか、あて先のない手紙でなく、手紙の向こうの「誰か」にたどりつくのではないだろうかと思ったのです。
だから、「サファリに電話して聞いてみようよ」と言いました。娘も「うん!」と即答でした。
そのときに勢いで一度かけてみましたが、平日の夕方で既に閉園していました。
それで早い時間にかけられる土曜日に、もう一度「今日はサファリに電話できるよ」と促してみたものの、
ちょっと間が開いたために、「でも何て言えばいいのかわからない!」と半分混乱して怒ったように言ってきたので、「じゃあ、紙に言うことを書いてそれを見ながら話したらどうかな?書くのは手伝うよ」と声をかけました。
そうしたら納得したようで、結局自分で台詞を書き始めました。
「〇〇〇〇(自分の名前)です。すみませんけど、まえ、わたしはがっこうのとき、みんなでサファリに行ったんですけど、そのときにカンガルーのところでティッシュをおとしてしまいました。今ちょっとだけさがしてみてください。ありましたか?なかったですか?ありがとうございました。」(原文まま)
・・・私の手伝うところないじゃないか。だいたい、こんな文章を書けるくらい成長してたんだな。でも一体いつの間に?
これを見ながら電話をすると、受付の方が「いつサファリに来ましたか?」「ポケットティッシュですか?」「どんな柄ですか?」と丁寧に聞いてくださり、それに娘が答え、探してくださいました。
結局、ティッシュはなかったようですが、娘もここまでできたことに満足していたようでした。
電話のあとは二人で、「やっぱりなかったね」「一体ティッシュはどこにいったんだろうね」「カンガルーが食べたんじゃない?」「カンガルーが食べたら大変だから、誰かが拾って捨ててくれたのかもね」「かぜをひいたカンガルーが鼻をかんでるかもね」などなど、いろいろ想像して笑いました。
子どもの今の精一杯の思いやエネルギーが詰まった言葉や文章にきちんと反応を返すことの大切さを今更ながら実感する出来事でした。
そうすることによって、自分の思いを大事にしてくれる人がいると自然に感じ、「書くことって楽しい。もっと書こう。次は何を書こうかな。」につながっていくのではないかなと思います。
「書いたものを読んでくれる人が確かにそこにいる」「そしてそれに反応してくれる」・・・こどもから大人まで、それが書くモチベーションに繋がるのではないかしら。
いくらAIが進歩したって、そこは「人間」にしかできないことだと私は確信する。読んでくれる人がいるからと思って書くわけじゃないからね、AIは。